三人家族を乗せた車は、ロンドンの町中で唐突に急停車した。つんざくようなブレーキの音がそこら中に響き渡り、車体は大きくつんのめったが、車内は相変わらずぴくりとも揺れなかった。
「クレイオス様、『漏れ鍋』でございます」
 レノーラはピカピカに磨かれた窓から『漏れ鍋』を確認した。本屋とレコード店の間に、古ぼけたみすぼらしいパブが挟まれている。外れかけたおんぼろの看板は風に揺られてぷらぷらしている。扉は埃っぽくて、もう何年も人が訪れていないのではと疑いたくなるほどの汚らしさだ。現に、足早に道を行く人々はみんな『漏れ鍋』には目もくれず通り過ぎていく。
「私、ここ嫌いよ」
 フォルセティが扉を開けてくれるのを待つ間、アステリアは臭いものを見る目つきで『漏れ鍋』を睨みつけた。クレイオスは何も言わなかった。レノーラが「車で行きたい」なんてわがままを言い出しさえしなければ、きっと妻に同意していたに違いなかった。
「どうぞ」
 深々と頭を下げながら、フォルセティが扉を開いた。輝くブロンドを見たレノーラはたちまち機嫌を損ね、フォルセティが荷物を受け取ろうと伸ばした手を乱暴に振り払って外に飛び出した。
「もう、レノーラったら、またあなたに失礼なことを…ごめんなさいね」
 アステリアが困り果てたように溜め息をつくと、フォルセティは力なく笑った。
「とんでもございません、奥様。お気になさらず」
 快適な気温に調整されていた車内と違って、外は暑い。車を降りた瞬間、じっとりとした不快感がまとわりついてくる。レノーラはあまりの日差しの強さに鳶色の両眼をスッと細めた。

 チリンチリンという情けないドアベルの音に誘われ、家族は『漏れ鍋』の中へ入った。外見から受ける印象を裏切らず、店内も薄暗くて汚らしかった。田舎臭い年寄り魔女が二、三人腰かけているくらいで、それほど賑わっているようにも見えない。クレイオスは入店するなり、安っぽいシェリー酒のにおいに顔をしかめた。
「ミスター・ハーグリーヴス!」
 クレイオスのキラキラした金髪頭を見つけて、バーテンダーのじいさんが気さくに声をかけてきた。アステリアはこんな汚らしいところにこれ以上いたくないという不快感が丸出しの顔で、まるで磁石のようにピッタリと夫にくっついた。
「やあ、トム。元気かね?相変わらず薄汚い店だ」
 クレイオスが包み隠さず言った。トムは困ったようにちょっぴり笑った。
「そう言うなよ。何か飲んでいくかい?」
「生憎だが、昼間から家族そっちのけで酒を飲むほどわたしは落ちぶれていない。第一、安い酒などわたしの口に合わん」
 どこから聞いても嫌味としか解釈できない言い方だったが、バーテンは気を悪くしなかった。「そう言うだろうと思った」というような様子でちょっと肩をすくめただけだ。
「そちらは娘さんかい?奥さんによーく似とるね」
  歯の抜けたクルミみたいな顔が、突然レノーラの方に向けられた。レノーラはとたんにすくみ上がり、クレイオスの後ろにパッと隠れた。
「それでは失礼するよ、トム。こんな陰気くさい店で油を売っている暇などないのでね」
 クレイオスは愛想のかけらもない挨拶を投げ捨てると、妻と娘に目配せし、パブの奥へ姿を消した。アステリアもレノーラも急ぎ足でクレイオスの後を追いかけた。
 三人親子はパブを通り抜けて、小さな中庭に出た。石壁に囲まれた窮屈なところで、ごみ箱と雑草がほんの少し生えているだけの、物寂しい庭だ。クレイオスはマントの中から長い杖を引き出し、突き当たりのレンガの壁を三回つついた。するとレンガが大袈裟に震え出し、真ん中に小さな穴が現れたかと思うと瞬く間に広がっていった。二秒とたたないうちに、レンガの壁には大きなアーチ型の入り口ができあがった。
「さあ、レノーラ」クレイオスが杖をしまいこみながら振り返った。「『ダイアゴン横丁』だ」
 レノーラは待ちきれず駆け出した。ハーグリーヴス夫妻は困ったように顔を見合わせ、小さく笑った。

 アーチの入り口をくぐり抜けると、老若男女の魔法使いたちで賑わう明るい横丁が現れた。『ダイアゴン横丁』——魔法使いたちの集う町だ。大鍋の店、箒の店、マントの店、ふくろうの店……マグルのショッピングモールには決して見つけられないような、奇妙きわまりない店がズラリと立ち並んでいる。
「おい、見ろよ。ニンバス2000新型だ…最高速だぜ」
 箒のショーウィンドウに、男の子が何人か群がって酔いしれている。
「レノーラは箒はいらないのかね?」
 ピカピカに磨かれたショーウィンドウを示して、クレイオスが聞いた。
「一年生は個人用の箒を持っちゃいけないの」レノーラは首を振った。「でも、いいのよ。私、クィディッチにはそれほど興味がないから。どっちかって言うと応援する方が好きなの。そうね、私、チアリーダーになりたい!」
「それがいいわ」
 母親は娘の手をいとおしそうに握り締め、やさしい声色で同調した。
「クィディッチなんて危ないスポーツ、レノーラにはさせたくないもの。あれは男の子のやる競技よ」
 とはいえ、『ニンバス2000』がまったく気にならないというわけではなかった。最高級、最速、最新型——レノーラの大好きな要素を三つも揃えたブランド品だ。あんなものが出てしまった以上、家にある『コメット』なんてもはやただの骨董品としか思えない。乗り心地はどんな感じだろう、どれくらいの速度を出せるんだろう…幻のニンバス2000に思いを馳せながら、レノーラは両親の後をおぼつかない足取りでフラフラとついて行った。
 しかし、『フローリアン・フォーテスキュー・アイスクリームパーラー』の前を通りかかった時、レノーラの頭の中からニンバスのことはいっさい消し飛んでしまった。
「ママ、見て!でっかい!!
 図体の大きな男が店頭でアイスクリームを二つ注文していた。そこらの成人男性と比べても一回り以上でかい。あんまり背が高いので、頭のてっぺんが常にアイスクリームパーラーのテントをこすってしまっていた。黒い薄汚れたコートを羽織り、モジャモジャの髪とひげが顔の大部分を覆い隠している。
「ほら見て。パパよりでっかいよ!」
「あんまりはしゃがないの。お上りさんみたいだわ」
 アステリアがピシャリと言った。
「そういえば、あなた。約束の時間じゃない?」
 クレイオスは妻に言われてローブから懐中時計を取り出した。
「ああ、そのようだな。わたしはあっちの店でルシウスと会ってくる。お前たちは杖と制服を買いにいきなさい」
「ええ、そうさせていただくわ。ルシウスによろしく
 自分から持ち出したくせに、アステリアは不満げに口をへの字にひん曲げた。ママったら、よっぽどルシウス・マルフォイが気に食わないんだ——レノーラは呆れ果て、二人がまた稚拙な痴話喧嘩を始める前に、母親のローブをつかんで『オリバンダーの店』まで引っぱって行った。




†††




 杖を売る店は『漏れ鍋』に引けを取らないみすぼらしさだった。今にも崩れ落ちそうなボロボロの建物で、埃のつもった扉に剥がれかかった金文字で『オリバンダーの店——紀元前三八二年創業 高級杖メーカー』と押してある。何十年もまともに磨かれていない汚らしいショーウィンドウには、色褪せた紫色のクッションの上に、杖が一本だけ飾り付けてあった。
「いつ来ても汚いところね、まったく——あら」
 アステリアはレノーラのために扉を開けようとしたが、手垢で真っ黒になったドアノブを見て手を引っ込めた。代わりにポケットから杖を取り出して、ドアに向かってくるりと振ると、ドアがひとりでにハラリと開いた。
「さあ、入って……早く済ませてしまいましょう…」
 店は図書館のように静まり返っていた。二人が入ると、どこか奥のほうでドアベルが幽かに鳴ったが、それっきり何の音も聞こえなかった。薄明かりの中、杖の入った細長い箱が天井近くまで整然と積み上げられている。取り揃えられた家具はどれも一世紀以上前のものと思われるほど古く、つついただけで粉々に崩れてしまいそうだ。アステリアは靴の爪先でつついても倒れないかどうか確かめてから、椅子の上にハンドバッグを下ろした。
「いらっしゃいませ」
 レノーラは飛び上がった。知らないうちに、目の前に老人が立っていた。まばたきもせず、埃っぽい薄い色の目をキラキラ輝かせている。
「ヴィーグリース嬢の娘さんだね?二十四センチの柳の木でできた杖じゃった」
 オリバンダー老人は入り口近くに突っ立っているアステリアを見て言った。
「あ、あの……ハーグリーヴスです」
 レノーラはおずおずと言った。『ヴィーグリース』はアステリアの旧姓だった。
「ふーむ。ハーグリーヴスのご子息と結婚されたか。それもまたよかろう……あれは確か二十七センチで、楡の木じゃった。ところでお嬢さん、お名前は?」
「レノーラです」
「ではレノーラお嬢さん、杖腕はどちらですかな?」
 レノーラは答える代わりに右腕を突き出した。オリバンダー老人はポケットから長い巻き尺を取り出し、レノーラの全身の寸法を測り始めた。
「オリバンダーの杖は強力な魔力を持ったものを芯に使っておりましてね、一角獣のたてがみ、不死鳥の羽根、ドラゴンの心臓の琴線……一角獣も不死鳥もみなそれぞれに違うからして、同じ杖など存在しないのですよ」
 オリバンダー老人は巻き尺をポケットにしまい込み、棚と棚の間に姿を消した。しばらくして、老人は薄赤い箱をいくつか持って再び現れた。
「さてお嬢さん、これをお試しなさい。イチジクの木と一角獣のたてがみ、二十四センチ」
 レノーラはドキドキしながら杖を取ったが、老人はレノーラが振ろうとする前に杖をむしり取ってしまった。
「これをどうぞ。柳の木に不死鳥の尾羽、二十七センチ。よくしなる」
 ところが、老人はレノーラが杖を試そうとした瞬間にまたしても取り上げてしまった。
「やはり安いのは合いませんな……少々高いんじゃが、これはどうでしょう。黒檀にドラゴンの心臓の琴線、十八センチ。見た目にも美しく、傷つきにくい」
 老人は黒地に金の紋章が入った箱から次の杖を取り出した。光沢のある漆黒の上品な杖だった。繊細で美しい装飾が彫られ、金箔が押してある。 受け取って握り締めると、指先が少し温かくなった。レノーラは杖先を花瓶に向け、軽く円弧を描くように振ってみた。杖の先からオレンジの閃光がほとばしり、空の花瓶にワッと花が咲いた。
「素晴らしい!」
 オリバンダー老人が手を叩いた。
「もう何十年も前に制作した杖でしてね、傑作だったんじゃが、とりわけ気まぐれで、なかなか気の合うお客さんが現れなくて……しかし、なんとまあ、こんなにピッタリ相性のいいお嬢さんが現れるとは…」
 そのまま放っておけば、老人は何分でも何十分でも話し続けたに違いないとレノーラは思った。オリバンダー老人が黒檀の色を殺さず、いかに美しく変形させるかということの難解さを高らかに論じ始めると、母親が痺れを切らしてやって来た。
「それで、おいくらですの?」
「おお、そうじゃった。えー、では二十五ガリオン——」
二十五ガリオン?」レノーラは耳を疑った。「たった十八センチで?杖って、そんなにするものなの?」
「まさか。私の杖は九ガリオンでしたよ」
 アステリアが財布の紐を解きながら言った。驚いたことに、上機嫌だった。
「だけど、一生付き合っていく杖ですもの。安物を買わされるより、ずーっといいと思わない?」




†††




 オリバンダーの店を出た後、レノーラとアステリアはホグワーツの制服を買いに『マダム・マルキンの洋装店』に向かった。アステリアはレノーラが制服を作っている間に教科書と大鍋を買いにいくと言い、二人は店の入り口で別れることになった。
「いらっしゃいませ」
 店内に入ると、藤色ずくめの服を着た、ふっくらした魔女が出迎えた。
「お嬢ちゃんもホグワーツ?」
「はい」レノーラは少しドキドキしていた。
「奥へどうぞ。全部ここで揃いますからね……さあ、いらっしゃい」
 マダム・マルキンに誘導され、レノーラは店の奥の踏台の上に立たされた。一つ隣の踏台で、丸メガネをかけた黒髪の男の子が丈を合わせている。反対隣にいた、あごの尖った青白い男の子が何かについて熱っぽく語っているのを、気だるそうに聞き流している。
「他の連中は入学させるべきじゃないと思うよ。そう思わないか?連中は僕らと同じじゃないんだ。僕らのやり方がわかるような育ち方をしてないんだからね。手紙をもらうまではホグワーツのことすら聞いたことなかった、なんてやつもいるんだよ。考えられないね。入学は昔からの魔法使い名門家族に限るべきだ——そういえば君、家族の姓は何て言うの?」
「さあ、終わりましたよ、坊ちゃん」
 黒髪の子が答える前にマダム・マルキンが言った。彼はこれを口実に、何も答えず踏台からポンと飛び降りた。
「じゃ、ホグワーツで会おう。たぶんね」
 青白い男の子は気取ったしゃべり方をする。レノーラは黒髪の子がどうしてあんなに嫌そうな顔をしていたのか何となく分かったような気がした。
 黒髪の子が店の外に出て行くと、青白い男の子の次なる矛先はレノーラに向けられた。アイスブルーの目に頭のてっぺんから爪先までジロジロ品定めされて、レノーラは思わずすくみ上がった。
「やあ」出し抜けに男の子が言った。
「ど、どうも」
 レノーラの声は緊張して上ずっていた。
「君もホグワーツかい?」
 レノーラは頷いた。
「さっきのみすぼらしい奴、ありゃ何だい?」
 男の子はたったさっき黒髪の子が飛び出していった店の出口をとがった顎でしゃくって見せた。レノーラはどういう風に相槌を打っていいのか分からず、曖昧に肩をすくめてごまかした。
「君も見たろう。僕が姓を聞いたとたん、あの顔だ。きっと名乗り出れないほど貧乏でみじめな家の出身なんだろうよ。そもそもあの身なりで純血だってのも疑わしい。ご本人はそうだとおっしゃってたけどね。見たかい?あの汚らしいダボダボの服!トロールのおさがりか何かかい?それとも、マグルの世界じゃああいうみっともないのが流行ってるのかな」
「…かもね」
 レノーラは生返事をした。男の子はほとんど聞いていなかった。
「君はどこの寮に入りたいか、決まってるのかい?」
「うーん……スリザリン」
「へぇ?」男の子の目が輝いた。「どうやら君は話が分かってるみたいだね。さっきのやつときたら、僕が話している間じゅう、ずっと『ううん』としか答えなかったんだ。きっと寮のことなんて初耳だったのさ——それで、君は?家族の姓は何て言うんだい?」
「…ハーグリーヴス」
 レノーラが素っ気なく答えると、男の子はちょっとだけ目を見開いた。
「ハーグリーヴス?じゃ、君がそうなのか?父上がよく君のお父さんの話をしているんだ。あぁそうだ、僕はマルフォイ。ドラコ・マルフォイだ」
 ああ、これが!——叫びそうになったのをグッと堪え、レノーラは咄嗟に「よろしく」と笑顔を取り繕った。
「君のお父上には僕も大変お世話になってるんだ。女の子が一人いるのは知ってたけど、まさか僕と同い年だったとはね。ホグワーツなんて混血の連中がうじゃうじゃいるところに入学するって、すごくだるいと思ってたけど、君みたいな良家の子もいるって分かって一安心だよ。君と友達になったって聞いたら、父上も喜ぶだろう。もちろん、君のお父上もね」
 レノーラはアステリアの顔つきを思い浮かべ、引き攣ったように笑った——お父上はね。
「言うまでもないことだけど、僕もスリザリンだ。もし他の寮に選ばれたら退学するね。ハッフルパフなんかに選ばれてみろよ、大恥をかくことになるよ。まあ、心配しなくても、僕の家系は代々スリザリンだから、僕も確実にスリザリンになるはずだ。君のところだってそうだろう?クレイオスおじさんもアステリアおばさんもスリザリンだったって聞いたよ。まぁ、当然といえば当然だけど。あんなに素晴らしい魔法使いが、スリザリンじゃないはずがないんだ——」
 レノーラは感心した。マルフォイは十数秒の間に五回も「スリザリン」を口にしていた。
「——君も知ってると思うけど、スリザリンは昔から優秀な魔法使いを輩出し続けてる。君のご両親もそうだし、ブラック家やチェイス家だってほとんどスリザリンさ。何せ優れた純血の魔法使いはみんなスリザリンに組分けされてるんだから。これでもしスリザリンに入れなかったら、一族の恥というか、汚点だね……」
「坊ちゃんも終わりましたよ」
 マダム・マルキンが言った。マルフォイはストンと軽やかに踏台から飛び降りると、レノーラのいる方に向かってパチンとウィンクしてみせた。レノーラはつい背後に誰かいるのかと振り返ってしまった。
「それじゃ、スリザリンで会おう。君とは仲良くしたい」
「あ……う、うん。そうね。ぜひ」
 マルフォイがレノーラの社交辞令を聞いていたかどうかは疑わしかった。マルフォイは自分の言葉が終わると同時に踵を返し、かなりご機嫌な様子で店を出て行ってしまったのだ。レノーラはよく磨かれたガラスの向こうに遠ざかっていく白金頭を眺めながら、やれやれと溜め息をついた。
「……幸先いい」



BACK   TOP   NEXT
2011年04月12日
マルフォイ呼びかドラコ呼びか迷って、結局原作に合わせてマルフォイにしました。