ふっと何かが頬に触れた。神田は目を開けた。暗い・・・どうやら、まだ夜らしい。神田はベッドから起き上がった。 ベッドどころか、床ごとギシギシと軋み音を立てている。殺気は感じない。一体何が目を覚まさせたのか?

答えはすぐにわかった。ゴズが寝ているはずの床には、毛布だけ残されていて、中身がない。ドアは大きく開け放たれ、 おそらく、そこから吹き込んだ風を感じたのだろう。

―――こんな真夜中に、どこ行ったんだ、あの馬鹿。

神田は壁に立てかけた六幻を手に取り、毛布をはいだ。そして、コートに手を伸ばしかけた時、ふと気付いた。 が、いないのだ。窓際に陣取っていたはずのが。そして、自分は毛布を二枚もかけている。 寝る前は、一枚しかかけていなかった。

真っ青になった。アイツは、森のあの程度の薄暗さでも目がよく見えていなかった。 こんな真っ暗闇で、もし襲われかけたら――?神田は急いでコートを羽織り、忍び足で外へ出た。



雨はもう止んでいた。地面はベチャベチャにぬかるみ、一歩足を前に出すたび、ブーツが沈んでしまうほどだ。 雨のせいか湿った空気は、じっとりと体にまとわり付いてくる。神田は、月の光が照らす道を突き進んだ。

―――イヤな場所だ。魔女が棲んでいた村、か。

そんな不吉なことを言われるのは、 おそらくこの村の不気味な雰囲気のせいだろう。雨のせいではない。この村には、何だか鬱屈したものが漂っている。 長い間積み重ねられた、人々の苦しみ、憎しみ―――そんな負の感情が、グルグルと渦巻いているような感じがする。

神田は、足元に何か小さなものが落ちていることに気付いた。かがんでよく見てみると、それはピンク色のゼリービーンズだった。 これは、夕食の時、空腹の収まらないゴズがソフィアからもらったゼリービーンズだ。 目線を少し遠くにやってみると、また一つ、そしてまた一つと、一列に並んでゼリービーンズが落ちている。

―――俺に居場所を知らせようとしているのか?この跡を辿れば!

神田は慎重にゼリービーンズを辿って行った。 神経が張り詰める・・・・・・どこから敵が飛び出してくるか知れない。

ふと、神田は昔読んだドイツの童話を思い出した。幼い兄妹が、道に迷わないよう道に落とした目印を辿っていく。 尤も、あれはパンくずだったが、たしか二人が行き着く先は、魔女の『お菓子の家』だった。

しばらく歩いた後、神田は村はずれの小屋にたどり着いた。小さな明かりが弱々しく灯っていて、外壁はガタガタに歪んでいる。 まさか、これが村はずれに住んでいた、老婆の家だろうか。中に、誰かいるのか?神田が足を止めたとき、どこからか殺気がした。

暗闇から襲い掛かってきたそいつを、神田は横っ飛びに素早くよけた。斧を持った、一人の男――森でとり逃がした男だ。

―――来やがったか。

神田は鋭い視線を男に走らせた。仲間がいると思ったが、どうやら一人だけのようだ。

「お前、ひとりか?」

男はカチカチと歯を噛み鳴らしている。

「なぜ、お前たちはこの村に来た者を殺すんだ? そしてなぜ、村の者には手を出さない?」
「アノ御方ノ・・・・・・命令ダカラダ」

男は、表情を奇妙に歪ませながら、ぎこちない言葉で答えた。

「あの御方とは誰だ?」

答えはない。代わりに男は無言で斧を構え、奇声を上げながら襲い掛かってきた。どうやら問答無用らしい。望むところだ。 神田は六幻を素早く引き抜き、イノセンスを発動させる。



―――抜刀!イノセンス発動!



真っ黒い暗闇の中、六幻の刃が銀に光を放つ。神田は襲い掛かってくる男に向かって駆け出し、六幻を振るう。 ギィィン!鋭い音がして、直後、男がガクリと膝をついた。同時に、神田は六幻を鞘に納めた。

「スマナイ。許シテクレ・・・・・・・・」

ボソリとそう言った気がしたが、神田が振り向いた頃には、アクマの姿は 跡形もなく消えていた。


魔女の棲む村


神田は乱暴に小屋の戸を開けた。かび臭い、がらんとした部屋には、パチパチと音を立てて燃え盛る暖炉が一つ。 目の前に、もう一つ扉がある。扉一枚を挟んだ向こう側で、かすかな物音が聞こえてきた。六幻を抜き、ドアを一気に蹴破る。

途端、先程の何倍も強烈な腐臭が広がった。その部屋は薄暗く、埃っぽい。古いベッドが一つ置かれていて、 目を少し凝らすと、そこにモゾモゾと蠢く人影を見つけた。猿ぐつわをかまされ、縄で縛られた大男。


ゴズだ。


その傍らに、もう一つの人影があった。間違いない―――店主の野郎だ。こいつが黒幕だったのか!

「おまえもアクマか!?」

詰め寄ると、店主は情けなく悲鳴を上げながら床に転がった。その姿は、とてもアクマには見えない。 神田が怪訝そうな顔をすると、ゴズが何か言いたげにこちらを見つめていることに気付いた。 神田は近寄って、乱暴に猿ぐつわを剥ぎ取った。

「わーん!来てくれると思ってました!!」
「うるさい!」

思いのほか元気そうで、怪我一つしていなかった。しかし、何て声を出すんだこいつは。

「おまえ、何やってるんだ!そんなデカい図体してあっさり捕まってるんじゃねェよ!あの店主なんか、相手にならないだろうが!」
「ち、違います!―――」
「何が違うんだ?」
「―――店主さんは俺を助けに来てくれたんですよ! 猿ぐつわを取ってくれようとした時、神田さんが来たんです!」
「あいつに捕まったんじゃないのか?」
「いいえ、違いますよ。気付いたらこの部屋にいて、縛られてたんです」

―――意味が分からない。

神田はギロリとゴズのでかい顔を睨みつけた。ゴズはヒッと息を呑んだ。

「そ、そんな怖い顔をしないで下さいよ! 本当なんですから!えーと、ですね―――そう、夢を見ていたんですよ!」
「は?夢?」
「ええ、夢の中にステーキが出てきて―――」

―――こいつ、一体何が言いたいんだ?

自分の顔が、どんどん険しくなっていくのが分かる。それに比例して、ゴズの顔がだんだん弱々しくなっていく。

「ステーキの乗った皿を追っているうちに、気付いたらここに来ていて縛られてたんですよー。 もう何がなんだかわかりません」
「それはこっちのセリフだ」
「もしかしたら魔女の仕業ですかね〜。なんつって」

神田は黙って六幻をスラリと抜いた。ゴズの顔が、サーッと青ざめる。

「わああ!すいません! 反省してますから殺さないで下さい!」

ゴズはギャーギャー喚くが、神田は無言で六幻を振った。 バサッと音がして、ゴズを縛っていた縄が落ちる。

「うぎゃあ!・・・・・・って、あれ?痛くない。 あ、縄を切ってくれたんですね。ありがとうございます」
「いいから、さっさと立て!」
「は、はい!」

ゴズはバタバタもがきながら、慌てて立ち上がった。

もし、ゴズが寝ぼけてこの小屋に来たのだとしても、 縛ったやつがいるはずだ。それに、小屋の前にはアクマの見張りらしき者もいた。『あの御方の命令』とか何とか言っていた。 つまり、まだ敵がいて、俺たちを狙っているという事だ。


「じいさん、悪かったな。 あんたはこいつを助けてくれようとしたのに」

神田が店主に目を向けると、暗がりの中で店主が顔を上げた。 目にはもはや気力がなく、顔は土気色だった。もしかしたら、夕食の時よりも十歳以上老けたんじゃないだろうか。


「お願いだ・・・・・・黙ってこの村を去ってくれ。今ならまだ間に合うかもしれん」
「どいういうことだ?」
「私には・・・・・・これ以上は言えない。頼む、店には寄らずに、真っ直ぐこの村を出てくれ。この村には魔女が―――」

店主はそこで力尽きたようで、ドサリと床に倒れこんだ。

―――夜の森よりも、この村のほうが危険だと言いたいのだろうか。・・・・・・ということは。

「ま、魔女!? それってどういう意味ですか!?」
「行くぞ、ゴズ」
「はっ、はい・・・―――」

慌てるゴズの襟首を引っつかんで、神田は強引に引っ張った。店主に目を向けず、まっすぐ小屋の出口に向かう。 小屋を出た途端、ゴズは太い腕を大きく広げて深呼吸した。

「うわーっ、ようやく普通に呼吸ができますねえ!」
「どういうことだ?」
「だってあの小屋、すごく臭かったじゃないですか。なんか腐ったみたいな臭いが充満してるし、埃っぽいし」
「まあな」
「一日こもっていたら、病気になりそうですよ。一人だったし、俺すごく心細―――」


「一人、だと?」


ゴズの言葉で、神田はハッとした。そういえば、の姿が見当たらない。 急いで小屋を振り返ってみるが、店主以外誰もいなかった。一体あの女、一人でどこへ行ったんだ?いや、もしかすると―――。

「どうしたんですか?」
「おまえはここにいた方が―――いや、いい」

店に戻らずに、村を出ろ。 つまり、あの店に俺たちの敵がいるという事だ。神田はチラリとゴズを見た。こいつを一人で放っておくわけにも行かない。 連れて行くしかないか。がいれば、待機させておくのだが、あの女、おそらく―――。

神田はそっと六幻に触れた。また、こいつの出番か・・・。

「どこに行くんですか?あれ、そういえばさんは・・・?」
「店に戻る」
「はい!」

神田の言葉に、明るく返事をするゴズ。何も気付いていないらしいな。めでたい頭だ。 神田は足早に、もと来た道を引き返した。地面にはまだゼリービーンズがぽつりぽつりと落ちている。

「・・・・・・そういえばお前、気付いたらあの小屋にいたって言ってたな?」
「はい、そうですけど・・・・・・」
「ということは、ゼリービーンズは目印じゃなかったのか?」
「ゼリービーンズ?」
「お前が落としたゼリービーンズを辿ってここに来たんだ。俺に知らせるために落としたんじゃなかったのか?」

ゴズはきょとんと首をかしげた。やはり、故意にまいて行ったわけではないのか。

「いいえ?あ、ほんとだ、落ちてますね。 ポケットに入れてたから、こぼれたんですね、きっと。そうかー、それで神田さんがあの小屋まで来てくれたんですね。 うおお、ラッキー!」

―――少しでも感心した俺が馬鹿だった。この能天気馬鹿め。


「ソフィアさんのおかげだ〜」


―――野ッ郎ォ・・・・・・・・・・・・。


「でも、本当に人の気配がしないですよね〜。まあ、夜中ってのもあるんでしょうけど」

ゴズがきょろきょろと、道脇に立つ家を見回しながら言った。

「本当に人が住んでいるんですかねえ。 もしかしたらこの村は俺たち以外、誰もいないんじゃないかって思いません?」
「・・・・・・・・・・・・かもな」

―――最悪の場合、この村には人間は俺たち以外いないかもしれない。

『雑貨店』の前についた。 神田は、一呼吸置いてドアノブに手をかける。・・・いよいよだ。



***



「・・・・・・・・・・・っはあ!!」

土から飛び出す腕。次いで、の顔が地上に上がった。 顔は泥だらけ擦り傷で、あちこちがヒリヒリ痛んだが、一番重症なのは左手だった。 どこかで捻ってしまったらしく、手首は派手に腫れ上がっている。

「あの女・・・・・・やっぱりアクマだったのね・・・。 生き埋めにするなんて、なんて悪趣味な女なの・・・ッ!?」

は悪態をつきながら、残った右足を地面から引き抜いた。幸いにも、背中に恍輝の鞘はぶらさがったままだ。



初めに奇妙に思ったのは、ソフィアという少女だった。 とてもかわいい子だとは思う。しかし、その周りを取り巻く空気が、アクマにそっくりだったのだ。

そして、ソフィアが現れてからの店主の態度の変わりよう。村の様子を尋ねられた、あの時の蒼白さ。 そして、足を怪我していて、外には出ないのに、何故あの言葉に頷けたのか。

「特に変わったことはないですよ」

まるで、娘の方に権力があるような。 そして、店主は何かを知っている。それは、誰の目にも明らかなことだった。

誰かが千年伯爵に繋がっている。 そんな事は森の中で証明済みだ。なんせ、斬った数は合計四人、取り逃がしたのが一人――そして、神田の言葉。

「まだ村やこの付近に潜んでいる可能性がある」

さすがにそこまで来れば人数が多すぎる・・・伯爵が何らかの意図を持って仕向けたか、その辺だろう。

三番目に気になったのは、ソフィアが無事に街へたどり着いたという事だ。十日前はアクマがいなかった。 そして、ソフィアが村へ帰ってきた直後に、アクマが現れたのだ。村人の気配はない。この村で会ったのは、あの親子二人っきりだ。 そうなれば、あの親子が怪しいことになる。

ソフィアは、アクマだ。そうだと気付いてしまった。



「ぺぺっ・・・・・・、なめんじゃないわよ!あんなの魔女の風上にも置けないわ!本物の魔女の力、見せ付けてやるんだから!」









(這い上がる姿はバフィーな感じでどーぞ)