朝、いつも通り登校した玲乃は、自分の席につこうとしてぎょっとした。
そこには先着がいた。
黒崎一護——入学式の日に突っかかってきた(と玲乃は思っている)オレンジ頭の『ヤンキーさん』だ。玲乃の椅子に横向きに座って、斜め左の席の男の子と談笑している。明るい色をした外ハネの髪型、浅野啓吾だ。一護とよくつるんでいるお調子者。玲乃はこの人達がどうも苦手だった。
浅野は声が大きいし、黒崎は入学式当日に派手なケンカをするような問題児だ。その後もあまりおとなしくしてはいないようで、よく教師につかまって説教されているところを目撃している。いいイメージがない。
(『どいて』なんて、とても言えない…)
「あ、宝生さん」
どうしたものかと立ち尽くしていると、石田が気づいて声をかけてきた。
「おはよう」
「い、石田くん……おはよう…」
玲乃はもう一度自分の席に目をやった。浅野が何かふざけたことを口走って、黒崎がひっぱたいた。これはまだもうしばらくかかりそうだ。玲乃は諦めて行き先を変え、石田の机の横にしゃがみ込んだ。石田は何かの本を読んでいるところだったが、急に手元を覗き込んできた玲乃に驚いて顔を上げた。
「どっ、どうしたの?何か用かい?」
「あ、ごめん…その……私の席使えないから…」
「ああ、あ、そう…」
石田は動揺を隠すように、メガネのブリッジを押し上げた。普段さほど会話をするわけでもないのに、いきなり馴れ馴れしかっただろうか——玲乃は不安になった。
入学式の日、お互いに「よろしく」を言い合った記憶は確かにあるのだが、実際のところ、石田を友達といっていいのかよく分からなくなっていた。態度はそっけないし、話しかけても長く続かない。向こうから挨拶をしてきてくれるあたり、少なくとも嫌われてはいないようだが。
(人づきあいってこんな難しいことだったっけ…?)
石田はもう読書に戻っていた。何を読んでいるのか気になって本を覗いてみたが、漢字が多くて気分が萎えた。どうやら小説ではなさそうだった。こんな難しそうな本の何がおもしろいのか玲乃には理解できそうになかった。
「………宝生さん…」
玲乃はハッとした。いつの間にか、石田の顔と本の間に頭を突っ込んでいたらしい。石田は小さく溜め息をついて、玲乃の後ろ頭に向かって話しかけた。
「そんなに気になる?」
「いやあの!ごめん…!ずーっと読んでるから、おおおおもしろいのかと思って…」
玲乃は慌てて身を引いた。
「宝生さんには難しいよ」
石田はきっぱりと言った。玲乃は「う…」と言葉を詰まらせた。
「わ、私、国語苦手で……でででもっ、本は好き……だよ…!」
——沈黙。
石田がページをめくった。聞いていない。
「あ…い、石田くんって、」玲乃はしぶとく会話を続けようとした。「石田くん、いつも何か読んでるよね……こ、今度私にも読めそうな本貸し…て………くれなくても…いいんだけど別に……」
「どっち?」
石田があまりにも長い間相槌を打たないので、玲乃は話の終着点を見失ってしどろもどろになってしまった。
「……じゃあ今度、宝生さんにも分かりやすそうなのを一冊持ってくるよ」
石田が本を閉じながら言った。玲乃は思わず「へ」と間抜けな声を上げてしまった。石田は耳聡くその声を拾い、呆れたように目を細くした。
「『へ』って……君が言ったんじゃないか」
「あ、そ・そうだよね…あはは」
玲乃は頭を掻きながら無理に笑った。
こんなに長くラリーが続くなんて初めてのことだった。相変わらず言葉は冷たいが、やっぱりそんなに悪くは思われていないみたいだ。本の貸し借りをするなんて、いよいよ友達っぽくなってきた。玲乃はにまにまを押さえきれず、石田に「何笑ってるの」と突っ込まれてしまった。
「た・楽しみにしてるね」
玲乃が笑顔を向けると、石田は一瞬僅かに目を丸くしたように見えた。
話が一段落ついたところで、きりがよくチャイムが鳴った。そろそろ座らないと、担任が来てしまう。玲乃は鞄をつかんで立ち上がり、左隣の自分の席を振り返った。
このとき、玲乃は石田とまともに話せたことがうれしくて、一つ忘れていることがあった。
それを思い出したのは、体の前面にどんと衝撃を食らった後だった。石田が慌てて「あっ」と声を上げるのを、玲乃は背中で聞いていた。
そうだ。自分の席には黒崎一護が座っていたんだった。
黒崎もスピーカーから流れてきたチャイムの音を聞いて、席に戻ろうと立ち上がったところだった。玲乃は振り返った拍子にその黒崎と正面衝突してしまったのだ。向こうは軽くたたらを踏んだ程度に留まったが、小柄な玲乃は後ろ向きに思いきり弾き飛ばされてしまった。
「おっ、と」
右の手首に知らない感覚が走ったかと思うと、次の瞬間、体をぐいと引き寄せられた。急速に流れた景色が逆行し、そして白一色に包まれた。
知らないにおい。
あたたかくて硬い感触。
それが黒崎の胸板だと分かった途端、玲乃は全身がカッと熱くなった。
「っ悪りぃ!大丈夫だったか?」
すぐ頭上から男物の声がする。掴まれたままの右手首。
「ごごごごごめん…!」
玲乃は黒崎を押し返すようにして距離を取った。
(わっ…!筋肉質…!)
パッと胸から手を離す。黒崎も玲乃の手を放した。
顔が熱い。耳が熱い。きっと今、首から上が真っ赤だ。玲乃は両手を頬に当てて俯いた。
「い…いや、俺もよく見てなかったっつーか…!」
玲乃があまりに恥ずかしがるので、黒崎にも熱が伝染してしまったようだ。黒崎はオレンジ色の後ろ頭をガシガシ引っ掻き回しながら、変に詰まった声で言った。
「わ、悪りぃ…」
気まずい。恥ずかしい。背中に石田の視線を感じる。事故とはいえ、なんださっきのシチュエーションは。このあとどうしたらいいのか分からなくなって、早く先生が来てくれないかと願いながら、二人して俯いて向き合っていた。そんな妙な空気を断ち切ってくれたのは、浅野だった。
「くぉら一護ー!!!」
「うおぅ!?」
「!!?」
突如怒号を上げながら間に割って入った浅野に、黒崎も玲乃もびくっとした。
「ぬゎーに公衆の面前で女子とイチャついてやがんだてめぇ!! なんださっきのは!! ラブコメか!! その顔で!!!」
「顔今カンケーねぇだろ!! つーかイチャついてんじゃねぇ、事故だ事故!!」
黒崎は浅野の胸倉を掴んで怒鳴ったが、顔が真っ赤で迫力がない。
「宝生さん!」浅野がくるりと玲乃を振り向いて怖い顔をした。「気をつけるのよ!一護に近づくと妊娠するわよ!!」
「えっ…」玲乃は一歩下がった。
「だー!! 妙なこと吹き込んでんじゃねぇ!!」
黒崎は浅野をげしげしと蹴りのけ、それから玲乃に向かってビシッと指を突き立てた。
「そんでお前もすぐ本気にすんな!」怒鳴られた。こ…怖い。「コイツの言ってること97%がデタラメだからな!」
「ひどっ!!」
「そ…そーなんだ…」
玲乃がちらりと浅野を見ると、浅野は顔を腕で隠しながらそっぽを向いた。
「やめてぇ!そんな目で俺を見ないでぇ!!」
「えっ…あ、わ、ごめんなさい…」
傷つけてしまったのかと玲乃は慌てた。頭上から溜め息が降ってくる。
「……だから本気にすんなっつったろ…」
あぁ、今のもそうか。
忙しい人達だなぁ。玲乃には二人のノリが難しくて、とてもついていけそうにないと思った。やっぱりまったりと不毛な会話をしている方が性に合っている。隣を振り返ると、石田はもう読書に戻っていて、玲乃の方には見向きもしなかった。
「ホラ席つけー。出席取るぞー」
大してやる気のなさそうな声が入ってきた。担任の越智先生だ。
(うわぁ〜…びっくりしたなぁ…)
玲乃は今度こそ席に戻りながら、去っていく黒崎の横顔をそっと盗み見た。吊り上がった眉と垂れ下がった目尻、すっと通った鼻筋。初めて会ったときは怖いヤンキーさんとしか思えなかったが、ひょっとしたらそうではないのかもしれないという気がした。あんな形になってしまってとても恥ずかしかったけれど、体勢を崩した自分を慌てて助けてくれた。
(いや、でも、びっくりした…)
嗅いだことのないにおい、他人のぬくもり、思い出したらまた顔が熱くなった。黒崎は席について、前の席の小島水色と何やら話し込んでいる。もう気にしていないみたいだった。
そりゃあそうか——玲乃はみるみる熱が引いていくのを感じた。黒崎と玲乃はまったく違う種類の人間だ。黒崎は顔は恐いが、周りにはいつも人が集まっている。派手で、賑やかで、明るいグループの中心にいる。でも玲乃は——きっと名前すら知られていないだろうし、明日になったらさっきのことも忘れられているだろう。
あれくらいのできごとで意識しちゃって……自分だけ、馬鹿みたいだ。
「宝生玲乃ぉー」
自分の出席番号が回ってきて、先生に名前を呼ばれた。玲乃は右手を上げて返事をする。
「はい」
玲乃は知る由もなかった。
騒ぎの後、石田が本を上下さかさまに持っていたことも、黒崎が越智の読んだ名前を心の中で復唱していたことも、静かに自分を見つめる人物がいたことも。
そして、これから待ち受けている未来も。
「おかしいっスねぇ…」
浦原喜助は、閉じた扇子で首の裏を叩きながら呟いた。
見上げる先は、昼間で無人の「幽霊屋敷」。あちこち傷みきって荒んだその家は、留守を任され、静かに家主達の帰りを待っている。浦原はその静寂が腑に落ちないようだった。
(この間まで感じてた霊圧が消えている…)
帽子の下に隠された目が、鋭い眼光を帯びて磨りガラスの窓を見つめた。
(結界?いや……)
浦原はすっとステッキを突き出した。
(——何も感じない…)
目指せ逆ハー風味