のんびりまったりと緩やかに進む高校生活に、新しい風が吹いた。玲乃のクラスに転校生がやって来たのだ。朽木ルキアは艶やかな黒髪に大きな目をした綺麗な女の子で、高貴な家の出身らしかった。耳慣れないお嬢様言葉を話すので、皆は大層珍しがったが、ルキアとお近づきになるのはかなりの難関だった。なぜなら、ルキアは四六時中黒崎一護にべったりなのだ。
「あの二人って、お付き合いしてるのかなぁ」
一度、好奇心に駆られて石田にそんな話題を振ってみたけれど、ものすごく恐ろしい顔で「知らない」と突っぱねられたので、玲乃は二度と石田の前で彼女の話をしないと誓った。
ある日、学校からまっすぐ帰宅した玲乃は、『浦原商店』の前で小さな騒ぎが起きているのに気づいた。小学生くらいの男の子が、同じ年頃の女の子に向かって喚きたてながら箒を振り回している。あんなもので叩かれたら痛いだろう——「こら!」玲乃は慌てて声を張り上げ、止めに入った。
「……何だよ」
「『何だ』じゃないよ、ダメだよお友達いじめたら」
「友達じゃねぇよ!いじめてもねぇし!——これは教育だ!キョ・ウ・イ・ク!コイツが仕事でヘマしたから俺が教育してやってんの!」
男の子が吠えるように口答えした。玲乃はムッと眉をしかめた。
「教育っていうのは知識を頭に叩き込むことで、箒を頭に叩き込むのはいじめだよ」
「ブッ」
真後ろで吹き出す声がして、玲乃はびくっと振り向いた。どこかから帰ってきたところらしい浦原喜助が、口元を押さえて肩を震わせていた。
「うまいこと言いますね」
「う・浦原さん……こんにちは…」
「はい♪こんにちは」
浦原は玲乃に向けてへらりと笑いかけると、子供たちに向かって「留守番ご苦労様」とねぎらいの言葉をかけた。女の子はパッと立ち上がって浦原の羽織にしがみついた。
「店長!コイツ誰!」
男の子が玲乃を指差すと、浦原は「おやァ」とたしなめるように言った。
「ダメでしょーが、年上の女性を指差して『コイツ』呼ばわりなんてしたら」
「ぐっ・だって……」
「それに、玲乃ちゃんはウチのご近所さんなんだから。仲良くしないとダメだよ」
「はあ?ご近所さん?」
浦原が肩越しに背後の『幽霊屋敷』を指差すと、男の子はあからさまに嫌そうな顔をした。
「ゲッ、アンタが『幽霊屋敷』に越してきた物好きかよ」
「物好き……」
ご近所にそう評されていたと分かって、玲乃はがっくりした。それを見た浦原は困ったように笑いながら、「まぁまぁ」となだめた。
「玲乃ちゃん、ご迷惑おかけしたお詫びと言っちゃなんですが、よかったらウチでお茶でも——」
「貴様の粗茶など詫びになるか」
ぴたりとその場の空気が止まった。三人の視線が突き刺さる。玲乃は慌てて首を振り、自分じゃないと主張した。
「こっちだ、たわけ」
玲乃の真後ろから誰かが姿を現した。小柄な、黒髪の、空座一高の制服を着た——転校生だった。
「おやァ!朽木サンじゃないスか!今日はどうしました?」
「……来客か」
ルキアが探るような目つきで玲乃を見つめた。
「——いやいや、こちらはご近所さんスよ」
「む…!そ・そうか、すまぬ」
「スイマセン、玲乃ちゃん。ちょっとだけ失礼しますね」
こそこそと逃げるように店へ入っていこうとする二人を、玲乃は思わず呼び止めていた。
「あ・あの!——朽木さん…だよね?」
ルキアと、そしてなぜか浦原もが、ぎょっとした顔で玲乃を振り返った。
「なっ!なぜ私の名を——」
「私!同じクラスの宝生です!」
「クラス…メイト……だと?」
ルキアの柳眉がぴくぴくっと動いた。
「ほうッ宝生さん——でしたのね!嫌だわ、私としたことが……ごきげんよう!」
「ごきげんよう……?」
玲乃は戸惑い気味に返した。なんだろう、ものすごく取り繕っている感じがする……。
「おぉ!」浦原がポンと手を叩いた。「なるほど、そういえばお二人とも空座一高でしたね!」
「ホホホホ!そうですのよ、宝生さんにはいつもお世話になって——」
「話すの初めてだよね」
「——はいないのだけれどッ…、いつも…ッ、見ておりますのよ!一方的に!元気な笑顔を!」
ルキアは血走った目で一気にまくし立てると、浦原の甚平の裾をガシッと掴んだ。
「え」
「というわけで!失礼いたしますわ!オホホホホホ……」
そのまま玲乃の返事を待たず、店の奥へ消えてしまった。取り残された玲乃と子供たちの間に、奇妙な沈黙が下りた。
「……なあに?あれ」
「ウチのお得意様」
「お得意様?——駄菓子屋の?」
男の子はそれ以上何も言わなかった。
『浦原商店』を後にした玲乃は、『幽霊屋敷』の門に手をかけたところではたと止まった。門の下に何かが落ちている。
「…? ぬいぐるみ?」
しゃがんでよく見てみると、それをふざけたライオンの形をしていた。どんな扱いを受けたのか、あちこちほつれて綿が飛び出している。泥にまみれた顔でつぶらな瞳が悲しげにきらめいていて、なんだかかわいそうに思えた。
玲乃はぬいぐるみを拾い、鍛鉄の門を押し開けて『幽霊屋敷』の敷地に入った。門の裏側にはガラス製の小さなミニチュア独楽のようなものがひっそりと置かれ、玲乃が通り過ぎるとキラリと太陽の光を反射した。
「ただいまー」
ドアを開け、屋敷の中に入ると、埃っぽい空気が玲乃を迎え入れる。入ってすぐの靴箱の上にもミニチュア独楽が鎮座している。玲乃が通り過ぎると、弱々しく光って一回転した。
リビングに置かれた鳥かごでふくろうのフィージーがバサバサと羽を揺らした。玲乃は通学鞄を壁際に置くと、ぬいぐるみを持って二階へ上がった。
細長い廊下が闇に向かって続いていた。左右に八つの扉があり、突き当たりには大量の御札が貼られた大きな扉がある。玲乃はその大部屋を無視して、手前の『れの』と書かれたプレートがかかった部屋に入った。
「お前、ずいぶん汚いねぇ」
玲乃はぬいぐるみに向かって話しかけた。だらりと力なく垂れた腕が玲乃の歩みに合わせて小さく揺れている。
「洗っとこうか」
ぬいぐるみを勉強机の上に置くと、玲乃はスカートのポケットに手を突っ込んだ。膝上丈のスカートに対して、ポケットの中は肩まで入るほど深い。壊れてしまったストラップのチャームや、あとでつけようと思って放ったらかしにしていたブラウスのボタン、いつでも何でも書き留められるように常備しているペン、そしてメモ帳がごちゃごちゃと入れっぱなしになっている。その中からようやく魔法の杖を探り当て、ぎゅっと握って引っ張り上げた。
「よーし。それじゃ——
ぬいぐるみが瞬く間に泡で包まれ、汚れが落ちて綺麗になった。見違えるほど鮮やかなオレンジ色をしている。
「わあっ、綺麗になった……けど、ボロボロ…」
それから玲乃はクローゼットを開き、裁縫箱を取り出して杖を一振りした。針と糸が宙に浮かび上がってぬいぐるみへ向かっていき、ひとりでに穴を縫い閉じていく。玲乃はその間に制服を脱ぎ、部屋着に着替えた。
その時、玄関から激しくサイレンが鳴り出した。玲乃はびっくりして大急ぎで部屋を飛び出した。杖を構えて吹き抜けから玄関を覗くと、靴箱の上のミニチュア独楽がけたたましい音を上げ、激しく光りながら回転していた。
「……
玲乃はごくりと喉を上下させた。
「何か怪しいものが近くにいるんだ……」
『幽霊屋敷』には、門の裏側と庭の植え込みの下、玄関、そして各部屋に一つずつ、かくれん防止器が置いてある。近くにうさん臭いものがあるとサイレンを上げて回るので、『屋敷』のどこが一番危険に近いか推測できるようになっている。玲乃は耳をすませ、玄関以外の音を探った。二階では何も聞こえない。けれど、門の裏側のも鳴っている。
「——外だ」
玲乃は自室に駆け戻ってドアを閉めた。勉強机でぬいぐるみの処置を終えた裁縫道具が糸切り鋏で最後の糸を切っている。玲乃はその横を通り過ぎ、窓からそっと外の様子を盗み見た。
玄関のかくれん防止器がピタッと鳴り止み、少し遅れて門も静かになった。しかし、すぐに植え込みの下からゆっくり回転する光が見え隠れし始めた。音はほとんど聞こえない。
「遠ざかった……移動してる…」
窓から見える空座町の景色はいつも通りと変わらない。一体何がいたんだろう?それは一度『幽霊屋敷』のすぐそばまで来ていた……玲乃はヒヤリとして腕をさすった。
かくれん防止器が回ったのは、今日が初めてではなかった。この町に越してきてから、三日に一度は回っている。けれど、今日ほど激しく反応したことはなかった。もしかすると、この町には何か怪しいものが潜んでいるのかもしれない。
「何だったんだろう……」
念のため外から見られないようにカーテンを閉め、玲乃は窓から離れた。そして、ふと勉強机に目をやって首をひねる。さっきまでそこに横たわっていたぬいぐるみが、いつの間にか消えていた。
「あれ?」
玲乃は咄嗟に部屋を見回したが、鮮やかなオレンジ色はどこにもない。おかしいな。どこか歩いて行っちゃったんだろうか——頭を掻きながら、ちょっぴり残念に思った。せっかくだから、針山にでも使おうと思っていたのに。
一命を取り留めたコン氏