少女はうなされていた。記憶にはない恐ろしい景色が次々に頭の中へ流れ込んでくる。沸き立つ血の池、何百というろうそくが赤々と照らし出す洞窟、紫色の空を背に立ち並ぶ墓石、穴の歪んだ髑髏。そして誰かが両手を広げた。壁をぶち破って灰色の腕が突き出してくる。松明の炎がいっそう激しく揺れる。十字架を掲げる手、『バンパイア』と題された古い本、おぞましい悪魔や黒魔術の挿絵……そして、キラキラ輝く十字架のネックレス。それを手に取ると、突如景色が悪化した。迫り来る何十人もの吸血鬼——墓——血の池——誰かが杖を振り上げ——暗い森を掻き分けて走り——幾人もの吸血鬼が——崇める——唸る——真っ赤な目をした土気色の顔の男……。
 少女はそこでハッと目を覚ました。直後、階下からけたたましい母親の怒号が飛んでくる。
「バフィー!?」
「…もう起きてるわ!」
 怒鳴り返しながら、彼女はゆっくりと半身を起こした。夢に見たような不気味な景色はどこにもない。そこは緑の縦縞の壁紙を張られた小さな部屋だった。クローゼットはほとんどからっぽ。白いフレームのベッドは追い詰められたようにダンボールの山に囲まれている。
初日から遅刻じゃ困るでしょう?」
 母親の辛辣な一言が、寝ぼけた頭をひっぱたいた。少女は思わず溜め息を洩らした。
「……えぇ…そりゃまずいわ…」

 バフィー・アン・サマーズはアメリカから越してきたばかりの、まだ十一歳の少女だ。髪型や流行にこだわりはじめる年頃で、お金もないのに服とアクセサリーをやたら欲しがる、どこにでもいるような普通の学生である。ただちょっと変わったところがあるとすれば、それは彼女が魔法学校に通う見習い魔女で、また、入学して一ヶ月で退学になるような問題児だということだろう。バフィーにとって一番の問題は後者にあった。新しく始まる学校生活に期待を寄せる反面、ある不安が頭にひっついて離れない。生徒たちがこんな経歴の自分を歓迎してくれるだろうかとか、そんな些細な不安ではない。もっと漠然とした、どうにもできない恐怖が彼女の心の中に巣食っているのである。
 小さな期待と大きな不安に胸を膨らませ、バフィーは目の前にそびえ立つ壮厳な城を見上げた。石造りの立派な塔なのだが、ママによると、どうやらここが『ホグワーツ魔法魔術学校』であるらしい。「ここが学校よ」と言われなければ、絶対迷子になったと思っていただろう。
「楽しくね!」ママは元気づけるようにバフィーの背中を叩いた。「友達ならすぐできるわ。ポジティブシンキングよ」
 両手の親指をグッと突き立ててみせる。どうやらママは娘が友達のことで不安がっていると思ったようだ。バフィーは一応軽く頷いておいた。
「あぁ、それから!」
 歩き出したバフィーをママが慌てて引き止めた。
「…今度は加減してね」
 その言葉で、バフィーの表情はふわりと緩んだ。困ったように小さく笑って、
「約束する」
 ママはようやく安心し、「じゃ」と軽い挨拶を言い残して娘を城に送り出した。
 再度見上げた校舎は、やはり威圧的だった。しかしここで怯んでは負けだ。今度こそは、心にそう誓いを立てるように、バフィーは「ふぅ」と小さく息を吐き出した。




†††




「失礼っ!そこ通して。失礼っ!!」
 授業へ向かおうとする生徒たちの流れを、スケボーに乗った背の高い男の子が蛇腹に乱していく。大きな黒いリュックを背負い、ラフな服装をしている。制服のローブは着用していない。
「悪いねー。気をつけて!」
 あわや少女との正面衝突を免れたところで、彼は全く悪びれもなく叫んだ。
「どいてよー!ワオゥ!失礼……おおっ…——」
 急速にすれ違っていく人混みの中、少年は目敏く輝かしいものを見つけた。石段を上がっていく金髪の少女、その横顔。ふっくらとした白い肌に、大きな丸い瞳、完璧な角度の睫毛。くるりと巻かれた金髪は朝日にキラキラ輝いている。ミニスカートから伸びるすらりとした脚が魅力的だ。
 少年はポカンと口を開け、自分には目もくれず遠ざかっていく後ろ姿に見入った。一体どこの寮の子だろう……見かけない顔だが、ひょっとして転入生だろうか?そんなことを考えている間にも、少年を乗せたスケボーはスーッと路上を滑っていき——。
うっ!
 石段の手すりに衝突し、少年は無様にひっくり返った。ちょうど傍を通りかかった赤毛の女の子にクスクス笑われ、少年は熱がカーッと頭に駆け上がってくるのを感じた。
「いてっ…いや、何ともない——ウィロー!」
 ウィローは腰まで伸びる長い赤毛を耳にかけ、ニヤッとした。少年はスケボーを手に取り、急いで立ち上がる。
「ちょうどよかった。探してたんだ」
「えっ、本当?」ウィローが嬉しそうに笑った。
「あぁ。『魔法薬』が分かんなくてさ」
 少年は早くも痛みを忘れ、ウィローと並んで歩き出した。ウィローの顔つきがほんの少し萎れた。
「あぁ…どのへん?」
「全部!だから今夜教えてよー、恩に着るからさぁ」
「恩に着るって、何してくれる?」
「5クヌートやるよ」
 少年がニヤリと提案すると、ウィローもつられて同じ顔をした。「いいわ。参考書を借りるのを忘れないでね」
「『借りる』って?」
「図書室からよー!本がいっぱいあるとこ」
 ウィローは幼い子どもに「1+1は2」を解説するような口ぶりで言った。少年はなるほどねと大きく頷いた。
「よしっ、分かった。マジでやる気なんだ!」

「ヘイヘーイ!」
 大理石のホールに差し掛かったところで、二人は急に声をかけられた。振り向くと、ひょろりと背の高い男の子がスキップしながら駆け寄ってくる。スケボーの少年と比べると手足も大分細い。面長で、ちょっと頼りのなさそうな顔つきをしている。
「よう、ジェシー。どうした?」
 少年は挨拶にジェシーと手を叩き合った。
「新顔だ!」
 ジェシーは嬉しそうだ。少年はすぐに石段のところで見かけたブロンドの彼女を思い浮かべた。見かけたのはほんの一瞬だけだったが、今でも容姿の細部まで完璧に思い出せる。ここ数年、類を見ない美少女だった。
「ああ。俺もさっき見たよ。超イカしてた!」
「今日、転校生が来るってよ!」
 ウィローの新情報に男の子二人は胸を躍らせる。少年は「へぇ」と興味深げに相槌を打ち、ジェシーに期待のまなざしを向けて詰め寄った。
「…それで?」
「『それで』って何?」
「情報だよ、あの子の!」
 少年がじれったそうに言い直すと、ジェシーはさんざん返答に悩んだ挙げ句、肩をすくめて、今さら分かりきった情報を提供してきた。
「——転校生だろう?」
「お前って本っ当使えねぇ奴!」




†††




 噂の転校生は、緊張の面持ちで椅子の上に縮こまっていた。デスクを挟んだ向かい側には、背の高い老人が一人ゆったりと腰かけている。髪も髭も相当長く、雪のように真っ白い。途中で二回曲がりくねった鉤鼻に、半月形のメガネがひっかけてある。レンズのむこうのキラキラした水色の瞳は、手元の調査書の上をころころとせわしく転がっている。この人の名は、アルバス・ダンブルドア。バフィーでさえ知っている。世界一有名な魔法使いだ。そして彼はこのホグワーツ魔法学校の校長である。
「バフィー・サマーズ。一学年に転入。ロスのヘムリー学校からか…興味深い記録じゃ。退学になったとは」
 さっそく核をつかれ、バフィーはドギマギした。ダンブルドア先生の水色の目が挑戦的に輝いた。
「フム…」
 ダンブルドアは一通り資料に目を通すと、驚いたことに、たった今読み始めたばかりの調査書を真っ二つに引き裂いた。バフィーは困惑の目つきで真っ二つになった紙片を見つめた。するとダンブルドアは見せつけるように高く掲げ、更に二つに裂いてしまった。
「ホグワーツへようこそ。この記録は破棄しようぞ。本校は過去にはこだわらない主義での」
 驚くほど寛容な言葉にバフィーはホッと笑顔を洩らした。
「何が書いてあろうと、こんな紙切れを鵜呑みにして、生徒を評価する——」
 ダンブルドアはたった今自分が破り捨てた『紙切れ』を手に取り、何かを見つけてしまった——「あぁ…」先生の喉の奥から奇妙な声が聞こえた。凍りついた表情がバフィーを見つめる。バフィーは慌てた。
「校長先生!」
「生徒には、アルバスと呼ぶように言っている」
「…アルバス、」
「誰も呼ばんが」
 ダンブルドアはさらりと白状した。
「私の経歴は確かに…『派手』です」
「あー、そのことをどうこう言っておるのではない。この場合、派手というよりもむしろ凶悪というべきでは?」
 ダンブルドアはバフィーの調査書をスペロテープで張り合わせながら、淡々と責め立てた。
「そんな、あんまりだわ!」
体育館を焼いたんじゃよ」
 なおも保身するバフィーに、ダンブルドアは強く言い聞かせる。言葉にすると流石に聞こえが悪い。
「それは確かにそうなんですけど、でも、先生には分からないのよ!あの体育館には大勢のバンパイアが!——」
 バフィーはハッと口をつぐんだ。ダンブルドアは口をあんぐり開けっ放しにして、ポカンとバフィーの顔を見つめている。
「——あ……あれは、事故で…」
「ミス・サマーズ。心配はいらん」
 ダンブルドアは継ぎはぎだらけの資料を机に戻した。口調も目つきもころっと変貌し、代わりにどこか悪戯っぽい微笑みが浮かんでいる。バフィーは目をぱちくりしばたいた。
「よその学校では君に対して罰を与えたり警告したりするかもしれん。じゃがホグワーツはちょっと違うんじゃ。我々は君の要求を満たし、こちらの要求も満たしてもらえるよう指導する。もし互いの要求が合わなければ——」
 ファイルの表紙がバタンと閉ざされた。それが何を意味するかを悟り、バフィーは思わず肩を震わせた。愛想笑いを浮かべるも、頬のあたりの筋肉が引きつって、上手く顔を作れなかった。

 重い足取りで校長室を後にしたバフィーは、いたたまれない気分で小さく溜め息を洩らした。転校初日でまだ授業を受けてもいないというのに、今日一日の活力を全て使い果たしてしまったような気さえした。一部にはダンブルドア校長の脅迫めいた忠告のせいもあったが、主たる原因としては、ある『重大な秘密』を隠し持っているバフィーにとって、あの全てを見透かしているような半透明の水色の瞳にじっと見つめられることが、何とも形容しがたい苦痛となるのだった。
 バフィーは廊下をふらふらと歩きながら、額に滲んだ冷や汗を拭き取ろうとハンカチを探して鞄を覗き込んだ。荷物を漁るのに夢中で前方をよく見ていなかったため、ちょうど角を曲がったところで上級生の女の子に思い切りぶつかってしまった。財布、手帳、ポーチやペンケースが、バラバラと音を立てて床に叩き付けられる。
「あぁっ!ごめんなさい!」
 バフィーは急いで謝り、荷物を拾おうと屈んだ。その時、人の流れの向こうから黒髪の少年が逆走してきた。
「手を出すよ!」
 いきなりの宣戦布告にバフィーはギョッとして顔を上げた。
「あー…手伝うよ」
 少年が慌てて訂正した。バフィーはホッとして「ありがとう」と微笑んだ。
「俺たち、初めてだよね?」
「あたしバフィー。転校生よ」
 バフィーはできるかぎり笑顔を作って答えた。少年のチラチラと盗み見るようないかがわしい視線が気になって仕方がなかった。
「あぁ、ザンダー!」ザンダーが食いつくように名乗った。「——あ…俺の名前。ハーイ」
「あー…よろしく…」
 バフィーはザンダーの落ち着きのなさが伝染してしまったかのように、ぎこちなく挨拶した。
「これからは、ちょくちょく会うかもね…学校でさ!だって俺たち、おんなじ……あー…学校だろ?」
「そうね…会えてよかったわ」
 それきりバフィーはサッと顔色を変え、いそいそとザンダーの横をすり抜けていった。

 逃げるように去っていくバフィーの後ろ姿に、手を振って見送ったあと、ザンダーはその手をギュッと握り、甘ったるい夢から唐突に目覚めたような顔をした。
「俺、何言ってんだ?ばっかじゃねぇの?ださいったらねぇぜ…あっ!」
 ザンダーの爪先に何かが当たった。きっとバフィーの拾い忘れだ。
「ねぇ!——」
 ザンダーは急いで拾い上げ、人波に揉まれてほとんど見えなくなった小さな背中に向かって声高に呼びかけた。
「ねぇ、忘れてるよ!」
 バフィーは気づく様子もなく、どんどん遠ざかって行く。ザンダーは躊躇いがちに言い足した。「——を」



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加筆修正 2010年10月17日
ちょっと頭の弱いバフィー。
ハリポタ陣の登場はまだまだです。