昼休みも終わりに近いというのに、校庭はいまだに生徒たちで溢れ返っている。しかし、さすがにクィディッチ競技場の周辺には誰も寄りつかなくなっていた。まだ「立ち入り禁止」の黄色いテープも貼られていないし、完全に無人の状態だ。これほどの絶好のチャンスを逃すわけにはいかないだろう。

 人目を盗んで入り口をくぐれば、そこから先は不気味な静寂の中だった。外は平和の日差しであんなに明るかったというのに、競技場の中は薄暗い。じめじめとして居心地も悪く、いかにも『何か』ありそうだ。廊下を半分ほど小走りで渡ったところで、更衣室の赤いドアが現れた。バフィーは窓から姿が見えないよう警戒して近づいた。さっそくドアノブを回してみるが、やはりというべきか、鍵がかかっている。どちらの方向に回しても開きやしない。バフィーは最後にもう一度周辺に誰もいないことを確認すると、渾身の力でドアを引っぱった。バキッという音が響く——塗装ごと金具が剥がれて、強引にドアが開いた。そこからいそいそと体を滑り込ませ、後ろ手に軽く扉を閉める。
 入ってすぐの角を曲がったところで、目当てのものはすぐに見つかった。
 ロッカーとロッカーの間の通路に、黒い布をかけて横たわっている。バフィーは鞄を近くに置いてからしゃがみ込み、何のためらいもなくバッと布を引き剥がした。露になったのは、青く変色した男の死体。恐らくこの学校の生徒ではない。もっと年上だ。20歳くらいだろうか——もっと血色が良くてまばたきさえしていれば、きっとハンサムだっただろう。しかしいまや瞳孔は開ききり、唇は紫色だ。さらに目線をゆっくりと下ろしていけば、襟の陰、その首筋には——。

「…あぁ……やっぱり!」
 鋭い牙で噛み付かれたような、深い刺し傷が残っていた。




 バフィーはまっすぐある場所へ向かった。たった数十分前、コーディリアに案内してもらったあの場所だ。丸い窓のついた観音扉を乱暴に押し開けると、かび臭い古本のにおいが再び鼻をつく。バフィーはそれを肺いっぱいに吸い込んで、開口一番にけたたましい怒声を放った。
いいわ!聞こうじゃない!!
「何か?」
 壇上の本棚のどこか奥から、くぐもった声が返ってきた。
「ロッカーから死体が出た話よ、聞いてるでしょ?」
「あぁ…」
 本棚の間から、埃っぽいツイードのジャケットが現れる。ジャイルズだ。バフィーは鞄をテーブルに叩き付け、階段から壇上に駆け上がった。
「こんな奇妙なことってないわね!あの死体首筋に穴があいてて血液を吸い取られてた!変だと思わない?それともただ、『ふぅーん』?」
 ジャイルズは真剣そのものの顔つきだった。溜め息まじりに小さく呟く。
「恐れていたことが…」
「あたしは違う!」バフィーはすかさず否定した。「まだ転校初日よ。あたしの心配は、授業にちゃんとついていけるのか、友達はできるか、髪型は決まってるかってことよ!学校にバンパイアがいるなんて考えもしなかった!あたし、知らないわよ」
「じゃ、なぜここへ?」
 いささか不思議そうなジャイルズに、バフィーはうっと息を詰まらせた。確かにその通りだ。
「……だから…知らないって、言いにきたの……あたし…本気よ!それじゃ、用は済んだから。その…バーイ!」
 半ば強引に話題を打ち切り、そそくさと踵を返した。
「ああ、あの少年は、生き返るのか?」
 背中を追いかけるように質問が飛んでくる。バフィーはイライラを隠せない様子で司書を振り向いた。
「誰?」
「死んだ子さ」
「…いいえ。彼は死んだわ」バフィーは顔を曇らせた。
「確かかね?」
「バンパイアになるには、血を吸われたあと、吸い返さなきゃいけないの。お互いの血を吸いっこね。たいていは殺されて終わりよ——あたしなぜこんな話してんの?」
 バフィーはぞっと首を振って悲鳴を上げた。今度こそ立ち去ろうと、急いで階段を駆け下りる。
「君は事態を全く把握してない!転校は偶然と思ってるのか?あれはほんの始まりだ」
 ジャイルズが木製の手すりに両手をつき、壇上から説教を吹っかけてきた。バフィーはそれを睨み返した。
「もう!どうしてあたしを放っておいてくれないのよ!」
「君がスレイヤーだからさ」ジャイルズが言った。更に言葉を連ねながら、階段をゆっくりと下りてくる。「時代時代で一人のスレイヤーが生まれる。世界中でただ一人選ばれし者。バンパイアを倒す——」
「『力と技を身につけた少女。悪の増殖を食い止め…』でしょ?もう知ってるわ」
 バフィーは司書の偉ぶった言葉に被せて言った。ジャイルズはぴくりと片眉をつり上げる。
「なぜそういう態度を取るんだ?君は自分の務めも知ってるし、実際に戦っても来たろう?」
「ええ!確かにそうよ。だからもうやりたくないの!」
 バフィーは頑なだ。ジャイルズは溜め息をついた。そこで説得方針を変えようとしたらしい。片手をかざして「待て」を命じると、小走りで司書室の中に駆け込んだ。
「この町のことをどれくらい知ってる?」
「あぁ、デパートまで車を飛ばして二時間半」バフィーはテーブルに腰掛けて答えた。
「ここの歴史を少し調べてごらん。あー、昔から不思議なことが色々と起きてる。どうやら、霊的エネルギーの中心地のようなんだ。だから他では見られないようなものが引きつけられてくるのかも…」
 再び現れたジャイルズの腕には、分厚い古本の山が高々と抱えられていた。
「バンパイアとか?」
「ゾンビとか…狼男…悪霊……」ジャイルズは言いながらバフィーの手に一冊ずつ本を積み重ねていった。「ベッドの中では怖くても、日が昇れば存在すら馬鹿げて思えるようなもの——彼らは、実在する!
 鼻と鼻がくっつきそうなくらいにまで接近し、鋭い目つきで宣言するジャイルズ。しかしバフィーは動じない。
「何よ。『ザ・クィブラー』の妖怪編でも買ったの?」
「あー…まぁ…」ジャイルズは急にバフィーから離れた。
「おまけもらった?」
「あー…カレンダーを…」
「そう!——とにかく、」バフィーは両腕に積み上げられた文献をジャイルズに押し返した。「第一に、あたしはスレイヤーだけど!第二に、もうやめたの。そうだわ!あなたがやれば?」
 名案だとばかりに挙げてみたが、ジャイルズは上手いこと乗ってはくれなかった。
「わ、私は『ウォッチャー 後見人』だ。助言するだけ…」
「大丈夫!心臓に杭、太陽光線。何も難しくないわ」
「退治するのはスレイヤーで、ウォッチャーは——」
「見るだけ!?」
 ジャイルズは一瞬「そう」と頷きかけたが、慌てて「いや違う!」と首を振った。両手いっぱいに抱えた文献をテーブルに預け、気を取り直して説教の体勢に戻る。
「あー、わわ私は君を鍛え、じゅじゅ準備を整える…」
「何の『準備』よ」バフィーはすっと目を細めた。「退学させられる準備?友達をなくす準備?奴らを全滅させるまで誰にも打ち明けられずに、たった一人命がけで戦い続ける準備?——やれば!?」
 震える口元を見て、ジャイルズは突然押し黙った。メガネの奥の埃っぽい色の瞳が、愕然と少女を見つめ返す。
「…準備なさいよ!」
 その言葉にジャイルズは何も言えなかった。薄い唇が何か言いたげに微かに動いたが、言葉が出てこない。ショックを受けたように凍りついている。バフィーは「ハッ」と冷たくせせら笑うと、テーブルの上から鞄をひったくり、荒々しく図書室を出て行った。ジャイルズは数秒もの間動けずにいたが、このままあの子を放っておくわけにもいかない。「クソッ」と小さく自身を叱咤し、急いで彼女を追いかけた。

 そして、図書室には誰もいなくなった。観音扉がキィ…と軋んで閉ざされたのを最後に、しんと水を打ったような静寂が訪れる——はずだった。しかし、ジャイルズはひとつ重大なことを見落としていた。『魔法薬』の参考書を借りに、一人の男子学生が図書室に訪れていたことを。
「……マジかよ!」
 きまり悪そうに姿を現したザンダー・ハリスが、ぽつりと一言呟いた。



 荒々しく図書室を飛び出したバフィーは、とにかくウォッチャーがいるこの塔から離れたくて、わき目も振らずに来た道を引き返した。しかし、あのウォッチャーはそう簡単にバフィーを釈放するつもりはないらしい。バタバタと革靴を鳴らしながら、執拗に追いかけてくる。
「悪化してる!」
「…何が悪化してるの?」
 バフィーはうんざりして足を止めた。ジャイルズは人目を気にして、バフィーの腕を掴み道の端に身を寄せた。
「奴らは集まってきてる。異常な事件がここ数年多発してるんだ。君が今日転校してきたのにもわけがある!」
「それはママがここに引っ越すって決めたからよ!」
 バフィーは正論を言って再び歩き出した。
「あぁー、何か起きる何か何か!」ジャイルズは壁に手をついてバフィーの行く手を遮った。「何か大変なことが起きるに違いない!今日にも!」
「それじゃあ説明になってない」
「あー、ハッキリとは分からないが、何か超自然的な大変動が起きそうなんだ。早れば今日、明日中にも…」
 放っておけばずっとこの調子だろう。バフィーのイライラも頂点に達した。
「『サニーデール』ってさぁ、『太陽の谷』でしょう?悪がはびこれるわけないわよ」




†††




 ようやくジャイルズから解放された頃には、すでに夕刻になっていた。城の外は薄暗がりに包まれ、廊下にぽつりぽつりと火がともり出す。バフィーは一刻も早く寮に戻りたかった。荒い足取りで大理石の階段を上がり、くねくねと複雑に入り組んだ道順を、間違えたって構うものかとばかりに歩き続けた。階段、廊下、角を曲がってまた階段、タペストリーの裏を抜け、階段、階段、階段、階段…。何本目か分からない廊下に出たところで、バフィーはいよいようんざりした。いっそのこと家に帰ってしまいたいとまで思った。その上——どこかで道を間違えたに違いない——、行き止まりだ。
「これもあいつのせいってことにしていいわよね」
 バフィーは茫然と立ち尽くした。廊下は一本だけで、曲がり角も扉もない。しかし、何もないというわけでもなかった。つきあたりの壁にピンク色の絹のドレスを着た貴婦人の肖像画がかかっている。コーディリアが見たら真っ青になりそうな体型の婦人で、二の腕とお腹が隠しようもないほど膨らんでいた。
「ハーイ」
 バフィーが近づいて挨拶すると、『太った婦人』は額縁の中で身を乗り出した。
「あら、こんにちは。ご機嫌いかがかしら」
 言葉の割に、あまり歓迎する態度ではなかった。『婦人』はさっさと用件を済ませてしまいたいとばかりに、
「合言葉は?」と言った。
「何?」
「合言葉よ。あなたここを通りたいんでしょう?」
 バフィーは困惑した。一体ここがどこで、この肖像画の隠し通路がどこに繋がるのかも分からないので、返事のしようがない。そもそもその『合言葉』とやらが何なのかさえ見当がつかない。バフィーは迷った挙げ句、ろくに言葉もまとまらないうちに口を開いた。
「あの、通りたいのはやまやまなんだけど。本当よ。だけどその…ちょっと確認したいことがあって……ううん、合言葉を知らないってわけじゃないのよ。ここを通りたいって言うのも本当よ。ただ、あたしがこの道を通るには一つ大きな障害があって…だから、あー…別の道を——」
「バフィー?」
「——通ることに…あら!」
 やにわに声をかけられ、バフィーは支離滅裂の言い訳を打ち切った。よかった、知り合いに会えた——振り向くと、昼休みに会った黒髪と赤毛の二人組が不思議そうにこちらを見つめていた。ハリーとロンだ。
「ちょうどよかったわ。あたし、どこかで道を間違えたみたいで…」
「そうだろうね。多分、君の行きたいところは別の塔だと思うよ」
 ロンが言った。数十分前と比べて、少し態度がよそよそしい。
「ここは僕たちの寮の入り口なんだ」
「あぁ、そうなの…」バフィーは落胆した。「よかったら、道を教えてくれない?どこを通ったらいいのか分からなくて」
「バフィー、そうしてあげたいけど、僕たち、きっとあまり一緒にいるところを見られない方がいいと思うんだ。さっきは知らなくて…その、が、コーディリア・チェイスの友達だったって…」
 どうも言葉がはっきりしない。バフィーは目を細めて二人を見つめた。
「コーディリア…って、今の話に関係ある?」
「とにかく、ここを下りて二つ向こうの廊下を行くといいよ。そこから先は分からないから、同じスリザリン寮の上級生をつかまえて——」
「何?」
 その時ようやく、バフィーは目の前の二人がとんでもない勘違いをしているのだと気付いた。
「あー…悪いんだけど、もう一度自己紹介させてもらってもいいかしら」
 バフィーが小さく手を上げて申し出ると、二人はキョトンと顔を見合わせた。
「あたしはバフィー。一応…グリフィンドール寮生なの」

 ハリーとロンが「豚の鼻」を唱えると、『太った婦人レディ 』の肖像画は前に向かってパッと開いた。その後ろの壁に大きな丸い穴が空いているのが見える。ハリーに促されてその穴をくぐると、バフィーはグリフィンドールの談話室に出た。あたたかみ溢れる円形の部屋だ。暖炉でパチパチとオレンジ色の火が弾け、上級生がそばのフカフカしたひじ掛け椅子に腰かけて本のページをめくっている。そんな微かな音が、この空間の心地よさをさらに引き出していた。
「わぁ…」
 バフィーは部屋を見渡して溜め息をついた。今日はあらゆる塔で何部屋も見てきたが、ここが一番落ち着いた。
「なかなかよさそうなとこでしょう」
 穴をよじ登ってきたハリーが言った。まるで自分の家を自慢するような口ぶりだった。
「ごめん、二人とも。ちょっとそこのいてくれるかなぁ」
 壁の裏からくぐもった声が聞こえた。「あぁ、ごめんなさい」——二人が慌てて穴の前から飛び退くと、ロンが「どっこいしょ」と穴からはい出してきた。
「ここ、どうも穴が高くて」ロンがシャツの乱れを直しながら言った。「君はよく軽々と登れるね」
 バフィーは「ハハ…」と渇いた笑いを洩らした。
「さっきはごめん。君がコーディリアと仲よしって聞いたもんだから、ついスリザリン生だと思っちゃったんだ」
「いいの。気にしないで」
 バフィーは笑顔を浮かべてロンを見上げた。ロンは少し照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
「それにしても彼女、敵が多いのね」
 二人には言えないが、バフィーは先ほどの二人の接し方から、コーディリアの前でのハーマイオニーやウィローを連想してしまった。嫌悪感というよりも、警戒して身構えているような印象だった。
「できれば関わりたくない女ナンバーワンだからね」とロン。「ネビル・ロングボトムなんて——あ、同じ寮のやつなんだけど——コーディリアに寝癖を馬鹿にされてからというもの、彼女を見かけたら悲鳴を上げて逃げ出すようになっちまったんだぜ。まるでモンスターでも見たような顔してさ…ありゃ立派なアレルギー反応だな。モンスター・アレルギーだ」
「…それジャイルズに使えそう」
 口が滑った。ロンとハリーが疑い深い目を向けてくる。バフィーは話を逸らそうと、慌てて大声を上げた。
「あぁーっ、ハリー!おでこに、何かついてるわよ」
「えっ?」
 バフィーが自分の額を指差してみせると、ハリーは慌ててペチンと手を置いた。真っ黒い前髪の裏に、何かついているのが見えたのだ。
「あ、これは——」ハリーは額に手を貼り付けたまま、言いにくそうにモゴモゴ言った。「——いいんだ」
 よく見ると、うっすらと古傷が刻まれているのが分かった。とっても古い傷のようだった。それもなんだか奇妙な傷痕だ。稲妻のような形をしている。
「怪我…したの?」
「ウーン、大分前に…」
 ハリーは稲妻形の傷を指先でさすりながら、曖昧に言葉を濁した。ふと脇に目をやると、ロンが信じられないという顔つきでバフィーを凝視していた。
「君、ひょっとしてマグル非魔法使いの出身かい?」
 バフィーは眉を吊り上げた。まさかこんなタイミングで家系を非難されるとは思ってもいなかった。
「いいえ。あたし、ハーフよ」
「アメリカじゃ話題にならなかったのかなぁ?」
 ロンは腑に落ちないとばかりに首をひねる。いったい何のことを指摘されているのか分からない。バフィーが目で助けを求めると、ハリーはちょっと笑って肩をすくめた。
「気にしなくっていいよ。僕も自分が魔法使いだって気づくまで知らなかったんだし」
 どうやら話をはぐらかそうとしているようだった。バフィーは何のことだか気になって仕方がなかったが、本人が裏返った声でお天気について語り始めたので、しぶしぶながら口を閉ざすほかなかった。



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加筆修正 2010年10月27日
バフィーもグリフィンドール。
当たり前(?)ですけどね。